普通の人が普通に幸せになるための考え方やヒントを書いています。

それは誰もが思いつくことだと思いますが、書き留めて置かないと忘れしまいます。

私自身もブログを読み返して、改めて考えさせられることが度々あります。


そうした幸せを求めることの中で最も私達の人生や幸せに影響することは、『私は何故生きているのか?私はどう生きたらいいのか?』という根源的な問いではないでしょうか?

仕事や私生活の目の前の問題に追われている時にはあまり真剣には考えませんが、一人になり、時間が余るような時や、やりたいことをしていてあるピークを過ぎた時などに、ふと思い出す問いです。


「この問いに答えを見出すことがとても大事なのではないか?では、それは何なのか?」

その答えを見つける前に、その問いが何故必要なのかもまた、皆思いつくことでしょう。

『今やっていることは、本当に必要なことなのか?』ということです。私がやりたくてやっていることさえ、私の真の目的に合っているのか?と言うことです。

そうしたことの多くは知的好奇心を満たすものではないこと、例えば目的も無く漫然とテレビやスマホを見ている時などに多く感じますが、例え知的なことであっても、例えば環境問題の本を読んだとしても、自分の生きる目的ではないとしたら、『それを知って何になるのか?』と言った疑問を私は持ちます。

目的も無く知的なことをして新しい知識や経験を持つことは必要でしょうか?

そもそも、その目的は生きる目的とどの程度合致しているのでしょうか?


時間や精神を無駄にしないために早めに生きる目的、つまり何を目指すのか、あるいは何を目指さないのかを決めた方が良さそうです。


『何も目的を持たずにただ日々を真剣に生きる。』こうした禅的な思考もわかります。

目的が自分を苦しめることもあるからです。

それでも私は禅的には生きられません。


『何であれ、知ることや経験は身になる。何かの役に立つ。』その考えにも賛成です。

『漫然や偶然の行動も経験になる。そこに行かなければわからない境地もある。』それも最もです。


しかし、出来れば自分の目指す、自分だけの境地を考えて、それを目的として生きていきたいと思います。



今日のブログの最後に少し気を楽にできることを書きます。

『人生の目的を決めても、その途中で何度変化してもいい』と言うことです。

『目的が変化することは良くあることで、その未達成なことを自分に責める必要はない』

まずは、これをしっかりと心に刻んだ上で自分の人生の目標、目的、生きる意味を考えましょう。